映画『余命10年』の藤井道人監督にインタビュー。社会派から“ほっこり系”まで、様々なジャンルの映画を手掛ける新鋭監督が挑んだのは、SNSを中心に反響を集めたベストセラー恋愛小説の実写化だ。
しかしこの原作は、他の恋愛ストーリーとは一線を画す。それは“余命10年”を宣告された主人公同様、著者の小坂流加も“数万人に一人”という不治の難病を抱えていたこと。さらに彼女が文庫版発行直前に逝去した、非常に繊細なバックグランドも持ち合わせていたことだ。そのタイトル以上に命の尊さを物語る本作を、藤井監督はどのように向き合い、そして実写化を実現させたのか。映画の知られざる舞台裏について、その想いの丈を伺うことができた。映画『余命10年』藤井道人監督にインタビュー<フィクション×ノンフィクションの融合>
■まず、原作『余命10年』を実写化した経緯を教えてください。
2018年、ちょうど撮影していた映画のオールアップの日に、ワーナー・ブラザースのプロデューサーの方から、『余命10年』の映画化のお話をいただいたことがきっかけでした。その当時の映画の撮影があまりにも過酷すぎて、僕自身疲弊しきっていたのですが、「俺にもようやくメジャー映画の話が来たぞ!」と凄く嬉しくて、そこで初めて原作『余命10年』を読ませていただいたんです。
小説自体は本当に面白かったんですけど、──ただご存じの通り、この本は“ありふれた”恋愛小説ではない。著者の小坂流加さんも、本の主人公と同じ病で亡くなってしまった繊細な作品であり、果たして自分が監督を務めてよいのか不安にも感じていました。けれど制作側から、“今生きている全ての人に”新たな感動を届けたいという熱い想いを直接伺って、オファーを引き受けることに決めました。
■確かに他の恋愛小説とは異なる、非常に繊細なテーマを扱う作品でした。実際に映画制作を進める中で、当初感じていた不安な気持ちは解消されたのでしょうか?
最初の頃は、脚本作りがただ淡々と進んでいるだけで、果たしてこのまま進行していいのだろうか?と自問自答の日々を過ごしていました。
そこから流れが大きく変わったのは、2019年のこと。小坂さんのご家族の方と三島のご実家でお会いする機会をいただいて、生前の小坂さんのお話を伺うことができました。
小坂家の方々は、僕のことを本当に温かく迎えてくださって、「流加は、こんな人間だったんだよ」「こんな想いだったんだよ」って、生前のありったけのエピソードを精一杯僕に伝えようとしてくださいました。
そんなご家族の姿を目の前にした時、僕は目が覚めたように“この作品は自分の人生を賭けてでも、傑作にしなければならない”という覚悟が芽生えてきました。何故なら、こんなにも大切な人の生きた証を残したいと思っている方々がいて、その大事なバトンを、僕に託そうと信頼してくださっているのですから。
映画『余命10年』という作品は、“著者の小坂流加さんに捧げるために作る”と自分自身に誓い、気持ちを新たに本格的な制作のスタートを切ることができました。
■実際に映画は、原作と異なる設定も多くありました。それも小坂さんのエピソードをお伺いしたことが、影響していますか?
はい、物語の半分以上に影響しています。小坂さんに捧げる映画ならば、小坂さんが叶えたかった夢や想いも、映画の中に落とし込もうと考え、原作とは異なるアレンジを加えました。
そのためこの映画は、ただ“小説を実写化しただけ”のものではない。フィクションではあるけれど、小坂さんの生きた歴史というものも、ストーリーに重ね合わせている。だから既に小説を読んだ人が映画を観ても、“あれ、話が全然違うじゃない。”とはならないと思うんです。
そして僕の作品作りの根底には、小坂さんと原作への敬意があるため、物語設定を変えること自体にも申し訳なさは感じていません。むしろこの映画を通して、また新たな感動を届けることができれば、より多くの人に原作を手に取ってもらえるチャンスだと感じています。沢山の方の心の中で、小坂さんの人生が生き続けることができたなら、それは僕にとっての本望ですから。
■映画の中では、美しい四季の移り変わりの演出も印象的でした。
四季の移り変わりは、「時間」のメタファーとして取り入れたものです。10年という長い月日を通して心象風景が変化していく。まず散る桜があって、次に色づく銀杏があって、そして降り積もる雪があって…。そういった流れるように過ぎる月日と共に、当たり前だけれど、登場人物たちの人生も一刻一刻と変わっていく。こういった映像的な表現ができるのも、映画ならではの醍醐味だと感じています。
ちなみに僕はメタファーを映画で使うことも少なくないのですが、原作がある作品の場合、そこまで強くオリジナリティを打ち出さないようにしています。「俺のメタファーを見てくれ!」みたいにするのは、やはり原作からズレを感じるし、あまり好きじゃない(笑)。だから『』と『余命10年』に関しては、本当にさり気なく取り入れています。<恋愛映画にとどまらない、沢山の愛を描いて>
■映画『余命10年』は、“死”という繊細なテーマを扱っているものの、沢山の“愛”を描いた作品だとも感じました。監督がそこ
シャネルブレスレットコピーに込めたメッセージとは何でしょうか?
今の不安定な世の中で、人生を棒に振るってしまったり、もしくは生きることに対して絶望を感じている方たちって、実際に少なくないと思うのですが、そんな不安を感じながら生きている全ての人たちに、“全然そんなことないよ。”って、ちゃんと言ってあげられる映画が作りたかった。
映画って、観たものがそのまま自分に跳ね返ってくるから、“鏡みたいで良いな”って僕はよく考えるんですけど。今回は恋に落ちる若者が<命>に向き合うひたむきな姿を通して、沢山の愛が観た人の日常に跳ね返ってくれたら嬉しく思います。
■同時に本作は、<恋愛映画>というジャンルではありますが、主人公と家族の温かな関係性にもグッとくるものがありました…
映画で描いた家族の姿は、取材させていただいた小坂家の愛がそうさせたもの。家族のキャラクターも、小坂家の方をモデルにしているほどですから。
そして同時に、小坂さんの人生と重ね合わせたこの作品は、<恋愛映画>というより、やはり僕にとってはひとつの<人間ドラマ>なんですよね。だから映像の中でも、主人公と恋人の関係性だけでなく、家族や友人をはじめとする愛もしっかりと描きたかった。10年という月日の中で、“どんな愛に触れて、どう生きたのか。”というところは、しっかりと描かなければいけないと感じていました。
もちろん観る人によっては<恋愛映画>で構いませんし、映画の宣伝的にもそうすることは間違いではありません。けれどこの映画を通して、観客の方たちが色んな側面の愛に気づいていただけたら幸いです。
■そんな監督にとって、“身近に愛を感じる瞬間”とはどんな時でしょう?
映画の撮影現場ですかね。いい歳こいた大人たちが、本当によい作品を作るために、一つのフレームに全エネルギーを注ぐ“あの瞬間”。仮に僕が無理なオーダーを言っても、何十人もの大人たちが光をあてるし、音をとるし、時には雨や雪まで降らせてくれる。そうやって一つの絵を真剣に皆で作り上げていく現場というのは、何度立ってみても沢山の愛を感じますし、感謝の気持ちでいっぱいになります。
■映画のタイトルにちなんで、もし残された時間が10年だとしたら何をされますか?
10年というタイムリミットを、途中で忘れてしまうくらい、映画を撮り続けると思います。その間は誰にも打ち明けないかもしれない(笑)。そして<10年>という時間を
グッチ財布コピー教えてくれる分、プランをしっかり立てて行動すると思います。<息を吸うように、映画と向き合う>ラストは大学卒業後から、<映画の道>を選んだ藤井監督の監督業にフォーカス。映画に夢中だった学生時代、不安や焦りでいっぱいだった20代、そして日本アカデミー賞を獲得した30代──。その背中をひたすら押し続ける映画とは、一体どんな存在なのか?映画にかける情熱を伺ってみた。
■学生時代から映画が好きだったとお伺いしました。“映画好き”になるきっかけとなった作品は何でしょうか?
確かキャメロン・ディアス主演の『メリーに首ったけ』だったと思います。当時高校帰りにTSUTAYAでDVDをレンタルして、友達と映画を観ることにハマっていたのですが、友達とワイワイしながら観る映画って、アメリカンコメディがダントツに楽しいんですよね。だからベン・スティーラーやジム・キャリーが出てる作品もよく観ましたし、邦画でしたら『ピンポン』なんかも好きでした。
逆に僕は大学に入学するまで、小津安二郎監督を知らなかったほど、日本の名作映画には一切触れていなかった。黒澤明監督作品も今こそ大好きだけれど、当時は鑑賞もしてこなかったです(笑)。
■藤井監督のように若くして映画監督として成功することは一握りだと思うのですが、これまで映画の道を生きていくことに、不安を感じたことはありませんでしたか?
不安は常にありますよ。特に20代の時は、人生への迷いや、早く売れたい!といった焦りのようなものが尽きなかった。それでも今もこうして監督業をずっと続けていられるのは、映画は何度作っても“答えが見つからない”ものだからです。面白いでしょう?逆に簡単に答えがわかるようなものだったら、つまらなくなって辞めてしまっていたと思います。
■それでは、これまで映画監督をやめようと思ったことは一度もない?
デビュー作『オー!ファーザー』の撮影終了後に一度だけ、“もう辞めようかな”って本気で考えていた時期がありました。
当時僕は26歳だったんですけど、伊坂幸太郎さんの原作は本当に素晴らしいのに、自分の技量不足もあって、“何か”が上手くいかなかった。50代前後の映画のプロの方たちに囲まれるのも初めてでしたし、分かりやすく新人監督の洗礼を受けたといいますか。自分が監督なのに、周りには全然上手くディレクションもできない。自分はここまでの器量の人間だったんだって、どん底まで落ち込みました。
■そこから、どうやって挫折を乗り越えたのでしょうか?
結局のところ僕は、凄く周りの人に恵まれた人生だと思うんです。自分が本当に駄目になりそうな時に、手を差し伸べてくれる人が必ずいるというか。
例えば僕は同級生の仲間と一緒に会社を作ったので、自分が仕事で落ち込んだ時に、弱音を吐きだせたり、慰めてくれる同志が身近にいる。あと僕の中学時代の親友がバーを経営しているので、そこでお酒を飲みながら愚痴ってると、“なんだ、俺こんな小さいことで悩んでたのか~!”みたいに、いつの間にか切り替えることができるんですよね(笑)。